松永 久秀。 松永久秀

松永久秀の三悪とは何か悪行について解説します

松永 久秀

しかし永禄4年(1561年)、享年30歳という若さで急に亡くなります。 病が原因だと云われていますが、当時から久秀による暗殺説が囁かれていたそうです。 十河 一存と久秀は仲が悪く、一存が亡くなった時に久秀が近くにいたことから疑われたようです。 また、亡くなった時のことを、次のように伝えている記録もあるそうです。 一存は、病の湯治の為に、久秀と有馬温泉に来ていました。 秀久は、有馬権現は葦毛 あしげ 馬が好きでないからと、一存に自身の葦毛馬に乗馬しないよう諭したそうですが、一存は久秀が嫌いなので、無視したところ落馬し亡くなったと云われています。 もし、この記録が本当であれば…事故ということになりますね。 ただ、この話は矛盾点もあり、信憑性に疑問が持たれています。 一存が亡くなった本当の理由は、定かではありませんが、少なくても当時の人で久秀の仕業かと疑っていた人もいるようです。 また、仮に一存を滅ぼしたのが久秀だとしても、当主・三好長慶は存命ですし「主家乗っ取り」の悪行とはなりません。 しかし、この後も秀久の主君・三好長慶の周りで不幸が続き、久秀が三好家を治める一人にまで登りつめます。 《 元長の次男・三好実休》 次は三好元長の次男で、三好長慶の弟・ 三好実休(みよし じっきゅう)の話です。 三好実休は、別名で三好義賢( みよし よしかた)とも呼ばれています。 先ほど述べた落馬説のある十河が亡くなった翌年の永禄5年(1562年)に、実休も亡くなります。 享年36か37歳という若さでしたが、戦によって亡くなったそうです。 久秀の仕業との説はありませんが、三好家の不幸は続きます。 《 長慶の嫡男・三好 義興》 三好長慶の嫡男・ 三好義興(みよし よしおき)が、早世した話です。 父に劣らず智勇に優れていたと評判の義興ですが、永禄6年(1563年)6月に病に倒れます。 名医と名高い曲直瀬道三 まなせ どうさん などが介抱したそうですが、具合が良くなることはなく、8月に享年22歳の若さで亡くなりました。 これで三好家一族は三年連続で誰かが亡くなっています。 嫡男・ 義興の件は、「主家乗っ取り」を目論む久秀に、毒を盛られたとする悪行説があるそうです。 また、義興が久秀の奸悪に気が付いた為、亡き者にされたとも云われています。 しかし、信憑性に疑問のある書物が久秀犯人説の出典元であって、信憑性の高い史料には一切そのような記載はないそうです。 《 元長の三男・安宅冬康》 元長の三男で、三好長慶の弟に 安宅冬康(あたぎ ふゆやす)という三好政権を支えた人物がいます。 先に述べたように三好家では、一存、実休、義興が相次いで亡くなっています。 多くの一族が亡くなり、生き残った三好一族として長慶を補佐したそうです。 しかし、永禄7年(1564年)5月、長慶の居城・飯盛山城にて自害させられます。 冬康は、人格者であったそうですが、何故このようなことになったのか、複数の説があります。 『言継卿記』という当時の公家が書いた日記には、冬康に逆心があったと記されているそうです。 また、当時の三好家中の実力者は長慶以外では冬康だけだったので、三好家乗っ取りを企む者が、冬康を滅ぼしたとする説もあります。 冬康を落とし入れる為に、事実を曲げて、長慶に言いつけたそうです。 言いつけたのは松永久秀であるとする説もありますが、定かではありません。 しかし、後に冬康に逆心がなかったことを知り、長慶はとても 後悔したそうです。 そのこともあり、うつ病になったとも、うつ病など病気が原因で正しい判断ができず、自害を命じてしまったとも云われています。 《 元長の嫡男で当主・三好長慶》 そして、ついに 三好長慶も亡くなります。 三好長慶 三好長慶は立て続けに一族を亡くし、特に嫡男・義興が亡くなったことがこたえたようで、心身共に患っていたそうです。 また、一説によると自害に追い込んだ冬康の件は、松永久秀の仕業だと知った後悔し、更に具合が悪くなったそうです。 永禄7年(1564年)7月、享年43歳で息子達の後を追うように病で亡くなったそうです。 長慶が亡くなる前から、三好家の施策は長慶から久秀を通じて行われるようになっていたため、主君の亡き後は自然と久秀の勢力が台頭することになります。 三好家当主の後を継いだ三好義継はまだ若く、一族の重臣だった 三好三人衆と共に 久秀が事実上、三好家を治めることになりました。 約三年の間で三好家の人が五人も若くして亡くなり、このことが三好政権を崩壊へ導くことになります。 その上、松永久秀が異例の出世をしたことから久秀の悪行だと云われることがあります。 久秀にとってあまりにも出来過ぎた出来事が、主君に取り入って出世を重ね、徐々に 実権を握った久秀の悪行として語られたようですが、どうやら乗っ取りの話は、創作のか可能性が高いようです。 その敵とは、室町幕府第13代征夷大将軍・ 足利義輝(あしかが よしてる)です。 足利義輝 当時の足川将軍家は、落ちぶれてはいましたが、形式的な権威は保っていたため、その権威を利用しようとする勢力の庇護を受けていました。 義輝は足利将軍家の現状を憂い、実権の復活を目指し大名間の争いを調停したり、懐柔策として自信の名の偏諱を大名らに与えています。 例えば、伊達政宗の父・伊達 輝宗、毛利家当主の嫡男・毛利 輝元、上杉 輝虎(後の上杉謙信)の「 輝」は足利義輝が与えた字だとされています。 このように権力復興を目指す足利義輝は、将軍を操り人形として考えていた三好三人衆や久秀にとっては、邪魔な存在だったのではないかとも云われています。 そこで、義輝の代わりに従兄弟の足利義栄(よしひで)を将軍に据えようと考えたそうです。 そして、永禄8年(1565年)義輝の居館・二条御所を約1万の軍勢の軍勢で襲撃し、義輝は奮戦虚しく滅ぼされてしまいます。 将軍が簡単に滅ぼされてしまったこの事件は、(えいろくのへん)といい、足川将軍家の権威を失墜させる出来事でもありました。 この 将軍を滅ぼしたことが、松永久秀の三悪の二つ目だとされています。 永禄の変は久秀が主導したかのように語られる出来事ですが…、久秀は少なくても直接は関与していないそうです。 久秀は本当は反対していたとも、黙認したとも云われていますが定かではありません。 永禄の変の主導者は、三好家の当主・三好義継(みよし よしつぐ)、三好家の屋台骨である三好三人衆、秀久の嫡男・松永久通(ひさみち)だと伝わります。 主君・三好義継や三好家重臣を味方につけ、三好三人衆が担いだ14代将軍・足利義栄に久秀の討伐令を出させます。 三好家中で孤立した久秀は、数ヶ月間行方をくらましました。 しかし、永禄10年(1567年)、主君・ 三好義継が三好三人衆と仲間割れし、久秀を頼って出奔してきます。 主君・三好義継を陣営に加えた久秀は、三好三人衆らに反転攻撃を仕掛けることになります。 そして戦の舞台となったのは、なんと 東大寺大仏殿、歴史的遺産・大仏殿に立てこもる三好三人衆に対して、久秀は奇襲をしかけ久秀側が勝利したそうです。 三好三人衆は、仏教徒である久秀は東大寺大仏殿では戦できないだろうと考えていたとも云われていますが、久秀は三好三人衆側の兵と共に東大寺大仏殿を焼き払ったと云われています。 現在の東大寺大仏殿 この 東大寺大仏殿を焼き払うという行為は、当時の人に「極悪人」という強烈なインパクトを与えたとされ、松永久秀の三悪の三つ目と云われています。 創作の世界でも秀久が躊躇なく焼き払う様子が描写されることがありますが…、久秀が故意に焼却させたかは不明とのことです。 東大寺は久秀が治めた大和にありましたが、強大な宗教勢力を誇り、久秀と良好な関係ではありませんでした。 東大寺は三好三人衆に味方し、境内に匿っています。 そうなると、久秀としては仕方なく東大寺で戦をしたのかもしれません。 やむ得ず失火してしまったとも、三好三人衆側の信仰心の強いキリスト教徒が放火したとも云われています。 こう見てみると、久秀は東大寺大仏殿の焼失に関与はしていますが、「悪行」とは言えなそうに思います。 松永久秀の三悪について 当時の状況を見てみると、三つ共久秀の悪行とは言い難いことが分かります。 むしろ主君・三好長慶、跡を継いだ三好義継に忠実であったとも云われており、少なくても一次史料から謀反を起こした記録は確認できないそうです。 松永久秀 上の写真は明治時代に描かれた久秀の肖像画です。 なんだか、とても悪そうな人に描かれているように見えます。 長慶亡き後、三好家の中核を担った実休の家系と不仲であったことが、悪行のイメージを与えたのではないかとも云われています。 その後の久秀は、織田信長を裏切るという史実もありますので、そこから悪人というイメージになったのかもしれません。 久秀の悪行のイメージは、『常山紀談』という江戸時代につくられた書物の影響があるようですが、『常山紀談』は戦国武将の創作なども載っている書物です。 本当の久秀像は、凄く良い人だったりするかもしれませんね。 近年、松永久秀は忠義の将、知将ではないかとする説が出てきました。 新たな解釈を踏まえ、松永久秀の生涯について書きました。 織田信長を裏切る話、最期は茶器と共に爆死した説は本当かなども書いています。

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松永久秀、悪人じゃなかった? 肖像画発見、その特徴は:朝日新聞デジタル

松永 久秀

松永久秀の出身については諸説あり、摂津国(現在の大坂と兵庫あたり)や阿波国(現在の徳島県)、山城国(現在の京都府)といわれています。 松永久秀は1533年ごろより細川家所属の三好長慶の書記を勤めていたと言われています。 1542年には松永久秀は三好軍の指揮官の一人として戦国時代の武将・木沢長政を打ち倒していることが記録されています。 徐々に頭角を表してきた松永久秀は1549年には三好軍の戦国武将の一人として、室町幕府13代将軍・足利義輝を追放し、京都を支配するのに貢献していきます。 このとき活躍したのが松永久秀で、様々な交渉をまとめたようで、たくさんの文章から松永久秀の名前が散見されます。 松永久秀は三好長慶に弾正の役職を任命されます。 また松永久秀は三好長慶の娘と結婚します。 このことからも松永久秀は三好長慶から重用されていたのがわかります。 1565年の足利輝義殺害後、三好家の三好三人衆やその子孫たちは自分達にとって都合よく動かせる足利義栄を14代将軍としました。 当初松永久秀は足利輝義の弟である足利義昭を将軍にしようと画策していたこともあり三好家と徐々に対立していくことになります。 そしてその後、松永久秀が領地としていた堺は三好軍に襲撃されてしまい、松永久秀は逃亡。 他の松永久秀の領地も次々と落とされていき、さらに大和の国は筒井順慶に荒らされていました。 実質的に残されていたのは松永久秀の息子、松永久通が守っていた多聞山城のみとなってしましました。 しかし1567年になると久秀は戦況を盛り返すべく堺から信貴山城を奪うと、今度は三好家側が大和を攻めます。 そして松永久秀は三好家が布陣する東大寺に奇襲をかけます。 三好家に対して劣勢だった松永久秀は織田信長に対して即座に降伏します。 松永久秀は九十九髪茄子という茶器を織田信長に献上します。 これに伴い信長は2万の軍勢を貸します。 当時の大和はすでに筒井順慶の領地になっていましたが松永久秀は徐々に取り返していきます。 また織田信長の家臣として、松永久秀は1570年の金ヶ崎の戦いで浅井長政の裏切りにより窮地に陥った信長を救っています。 しかし一方で戦国時代末期の信長包囲網ができてくると、徐々に松永久秀の立場が変化していきます。 1572年頃には信長の敗勢を悟った松永久秀はかつて対立していた三好家や武田信玄と組み、裏切ります。 しかし武田信玄が病死したことで戦況は一変、武田軍は撤退を余儀なくされ、三好家は信長軍に敗戦し壊滅します。 結局松永久秀は多聞山城を差し出し二回目の降伏をします。

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松永久秀/吉田鋼太郎

松永 久秀

光秀が久しぶりに再会した松永久秀(演・吉田剛太郎)は、京都の町の行政を一手に引き受けて活躍していた。 『麒麟がくる』で吉田鋼太郎が演じる松永久秀の人気が沸騰している。 第1話から主人公の明智光秀と絡み、その人物像がしっかり描かれる。 かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、松永久秀の実像についてリポートする。 * * * 戦国の梟雄(きょうゆう)というと、北条早雲、斎藤道三、そして松永久秀と、この3人の名前が挙がる。 梟雄とは、勇猛で残忍な人物。 要するに「悪者」のことだ。 3人に共通することといえば、次の3つだろう。 1 出自があやしい。 2 下剋上でのし上がった。 3 インモラルな行動をとった。 しかし、こうしたイメージはあくまでも小説や映画・ドラマなどのフィクションによって肉付けされたもので、必ずしも事実ではない。 それどころか、この3人についての「極悪イメージ」は、専門家の間ではほとんど否定されているのだ。 北条早雲は、一介の浪人が今川家の家督騒動を収めたことで力をえて関東地方に進出。 関東公方、関東管領といった既得権益をもつ権力者たちを駆逐して、関東の覇者となった人物として語られてきた。 しかし、実際は室町幕府の枢要を握ってきた名門伊勢氏の出身で、本人自身も将軍側近である幕府奉公衆を務めていた伊勢盛時という人物であることが明らかになっている。 盛時は、幕府の命を受けて今川家の家督争いに介入し、さらに幕府と対立する堀越公方・足利茶々丸を討って伊豆を手に入れたのだ。 その後は、幕府から独立して関東に覇を唱えて戦国大名となったのだが、一介の浪人でも、怪しげな梟雄でもなんでもない。 斎藤道三も、一代で美濃を乗っ取ったというのは虚像であり、実際は父親の代から二代にわたって美濃で力を蓄え、事実上の国主となった人物であることが明らかになっている。 東大寺大仏殿焼き討ちと松永久秀 そして、『麒麟がくる』でも「チョイ悪オヤジ風キャラ」(チト古い?)として話題となっている松永久秀にも目を向けてみよう。 松永久秀といえば、「主君の暗殺」「将軍の殺害」「東大寺大仏殿の焼き討ち」という「三悪」をおかした、まことに悪辣な人物とされてきた。 のちに織田信長に降参して配下となりながら、二度も謀反を起こした末に信長に討たれたというのも、マイナスイメージとなっている。 しかし、近年の研究で、こうしたイメージはだいぶ変わってきた。 まず主君の三好義興の暗殺だが、当時の久秀の書状には、主君の病気を嘆き悲しむようすが書かれている。 暗殺したという話は、後世に編纂された書物が出どころなので、実はかなり信憑性は低い。 主君暗殺はおそらく冤罪だろう。 将軍足利義輝を殺害したという話も、同時代の史料を精査すると、久秀の息子久通と三好義継の犯行であることが明らかで、久秀自身は関わっていなかったことがわかる。 久秀は、将軍殺害どころか、のちに将軍となる足利義昭を保護していた人物なのだ。 東大寺大仏殿の焼き討ちは、確かに久秀が関係している。 しかし、当時の状況を検討してみると、事件の裏にある「事情」が見えてくる。 もともと久秀と対立する三好三人衆(三好政権を支えていた三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が、久秀の居城である多聞城を攻撃していた。 そこで、東大寺が三好三人衆に味方し、三好軍を境内にかくまうという事態が起きた。 こうなると、反撃に出た久秀は東大寺を攻めるほかなく、激しい戦いの中で大仏殿は炎上してしまったのだ。 比叡山を焼き討ちにした信長もそうだが、宗教を弾圧しようという意図は、久秀にもなかったろう。 ただし、敵対勢力に加担をしたとなっては、状況次第で攻撃対象にせざるを得ないのだ。 敵に味方した東大寺を、放置するわけにはいかない。 そうした事情を考えあわせると、大仏殿焼き討ちを「久秀の責任」「悪行」と決めてかかるのは無理がある。 こうしてみると、久秀の「悪行」は、いずれも誤りだったといえる。 天理大学准教授の天野忠幸氏などの研究によって、こうした事実は明らかになってきた。 さらに、久秀は実はかなりの教養人・文化人だったこともわかってきた。 永禄5年(1562)、多聞城を築城中だった久秀は、城内に茶室の設計を指示している。 翌年には茶会を開き、平蜘蛛茶釜、付藻茄子といった最高クラスの茶道具を使っていたことがわかっている。 当時、茶会を開くには、本人自身が相当な文化人・教養人である必要があった。 誰でも茶会を開くことができたわけではない。 織田信長も、特定の家臣にしか茶会を開くことを許さなかったという。 さらに久秀は、2年後の永禄7年には、多聞城の城内にしつらえた別の茶室で茶会を開き、天下の茶頭として知られる千利休を招いているのだ。 利休に茶の手ほどきを受けるのは、あまたの大名が望んだ「名誉」であった。 むろん利休自身も自らを「安売り」することはなかった。 おそらく久秀は、当時としては屈指の文化サロンを主宰する文化人だったのだろう。 ただのワイルドなオヤジではなかったのだ。 茶釜とともに爆発?壮絶な最期は実話か否か そして、松永久秀といえば、その壮絶な「最期」の場面が印象的だ。 久秀は、二度にわたり信長に謀反を起こした。 信長と反目するようになった足利義昭や武田信玄が主導する「信長包囲網」に誘われたからだとも言われているが、大和国(奈良県)の支配をめぐって不倶戴天の敵となっていた筒井順慶を信長が召し抱えて保護したことが、久秀を追いつめたからだともいわれている。 信貴山城に立てこもったところ、信長の嫡男の信忠を総大将とする軍勢に攻め込まれる。 もはや最期と悟った久秀は、身近においていた前述の平蜘蛛茶釜という天下の名器とともに火薬に火をつけて爆死したとされている。 しかし、同時代の記録をみると、追いつめられた久秀が「平蜘蛛を砕いた」という逸話と、それとは別に、「鉄砲の火薬に火をつけて城を焼き、自害した」という記述があるのみで、「平蜘蛛とともに爆死した」というのは、どうもそのふたつの話をミックスしてできた「お話」らしい。 実際、久秀の死からほどなくして、いったん砕かれた平蜘蛛を修理して茶会で使ったという記録も残っているので、爆破されたというのは事実ではない。 この逸話は、「久秀の茶器にかけた心意気」を語るエピソードとして、茶の湯の世界で伝えられてきたらしい。 愛してやまない名物茶器、憎き信長にくれてやるくらいなら、いっそのこと一緒に木っ端みじんにしてしまおう! それくらい、久秀は茶器を愛していた。 いや、そもそも茶器にはそれだけの価値がある!——ということだろう。 茶の湯や茶道具の芸術的価値をアピールするには、もってこいの名場面だが、いささか演出がききすぎているようだ。

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