岩倉 具視 使節 団。 岩倉使節団(イワクラシセツダン)とは

岩倉使節団

岩倉 具視 使節 団

スポンサーリンク 明治維新と岩倉遣欧使節団 当時の日本の状況をおさらいしましょう。 1867年幕府による大政奉還、1869年に戊辰戦争が終結、廃藩置県を経て、1871年、日本はようやく近代国家としての歩みを遅ればせながら開始しました。 一方のドイツの普墺~普仏戦争の統一までの一連の流れも1860年代後半にかけて行われており、この、列強国の最終列車の最後尾に乗っかった両国が、その約70年後に、第二次世界大戦で敗戦を迎えるまでヨーロッパとアジアの国際情勢をかき乱すことになるのは、なんとも数奇な命運を感じます。 日本のほうは、いざ新政府が誕生したとはいえ、やることは山積されています。 その中でも、特に外交上重要だったのが 「不平等条約」の是正です。 日本は、欧米各国と国交を結ぶにあたり(安政五か国条約など)、「治外法権」と「関税自主権の喪失」を認めざるをえませんでした。 これらは、日本からしてみれば不平等ですが、欧米からしてみたら理には適った要求です。 例えば、当時の日本にはまだまだ残酷な刑罰などがありましたし、アメリカなどにしてみたら、現地のよくわからない尺度で自分の国民が裁かれて、拷問や打ち首などをされてはたまりません。 とりあえず、建前上日本が洗練された近代国家の仲間入りをするまで、日本の尺度で外国人を裁くことや、関税を勝手に決めることは認めないよ、という条約です。 この不平等な条約を、日本は撤廃したいと思います。 新政府が樹立し、日本も近代国家としての第一歩をようやく歩みだしたわけです、いきなり条約改正できるかどうかはともかく、交渉のテーブルくらいにはつかせてくれるんではないだろうか、という淡い希望を抱きます。 そして、この遣欧使節団のもう一つの理由は、欧州の現状を見て回ることです。 日本がこれから近代国家としての歩みを進めていくうえで、欧米の列強たちの政治システムなどはお手本にしなくてはいけません。 この辺の柔軟さは、当時の中国や韓国にはありませんでした。 彼らが劣っているというのでは決してなく、中国は、 「中華思想」「華夷秩序」の価値観をもとに、常に世界文化の中心として歴史の歩みを進めてきた自負があったからです。 今更、外国の文化をお手本になんてできません。 韓国も、中国の真横という、地理的に苦しい立場にあり、日本のように柔軟に動けません。 結局、韓国もこの中国の見方に賛同せざるをえず、アジアで柔軟に欧米の文化を取り入れられるのは、東南アジアや南アジアの植民地化された国家を除き、日本ただ一国という状況でした。 そんな二つの理由 「不平等条約の改正」と 「欧米の視察」のためにおこなわれたのが、この岩倉遣欧使節団です。 岩倉遣欧使節団 (写真引用ウィキペディア) 岩倉使節団とドイツ訪問 岩倉具視使節団の多くは、桂小五郎、大久保利通、伊藤博文など、幕末志士たちで構成されていました。 また、東洋のルソーとうたわれた中江兆民、津田塾大学の生みの親である津田梅子、後に西南戦争に士族側で参戦し、命を散らすこととなる村田新八など、国のトップから留学生まで、様々なジャンルの人間が含まれていました。 旅のルートは、アメリカを視察し、のちに大西洋からヨーロッパにわたり、ロシアやフランスなど列強国の国王に謁見し、地中海・紅海を経由して世界一周を果たす形でアジア航路から日本に戻ってくる、2年程度の大構想です。 当然、ルートの中には当時統一されたばかりの新国家、ドイツの名前も連なっています。 アメリカで、彼らは不平等条約を是正するのは難しいことを悟り、それからは、現地の視察と、国王へのあいさつに方向転換をしました。 とりあえず、不平等条約の是正は後回しです。 そんなこんなで、1873年3月、日本を出発して1年半後、岩倉具視遣欧使節団はドイツに到着しました。 もちろん、国王との謁見や産業の調査も重要だったのですが、ドイツ側の記録によると、面白いことに彼らが最初に向かったのは、ベルリンの動物園です(今もベルリンに残る由緒正しい動物園で、ベルリンを訪れる際はお勧めです)。 3月16日、遣欧使節団はZeughausという造兵廠を訪れ、そこで面白いエピソードを残しています。 久米邦武は、ワーテルローの記念碑のライオン像は、イギリスがフランスからかっぱらってきたものであることを思い出した。 そして、彼は、ナポレオンがブランデンブルク門から四輪馬車(門の上に飾られている像)をかっぱらっていったことも知っていた。 当時、統一されたばかりのドイツで、このヴィルヘルム1世とビスマルクこそが、その牽引を果たしたのです。 この場で、ビスマルクは一向に向かって以下のような口調で当時の情勢を諭します。 ビスマルクは、日本が近代化することを望み、そしてドイツはイギリスやフランスのように、植民地競争に参与する意図はない、ということを強調した。 」 これは、岩倉使節団にとって寝耳に水の衝撃でした。 正直者が得をするのではなく、魑魅魍魎跋扈する国際外交の世界では、強いものこそが生き残るのだと、国際法なんて弱者にとっては意味がない、と、一足先に列強の仲間入りを果たした先輩のビスマルクは言っているのです。 ビスマルク 不平等条約を是正こそが今回の周遊の目的でしたが、そんな不平等条約が文面上で改正されても、戦争に弱い国がいくら押し通したところで、実用的にはまったく価値がない、ということに気づかされたのです。 ドイツがこの短期間で強大な先進国の仲間入りをしたという事実は、確かに日本が ドイツの政治システムをお手本に近代化を進め始めた理由の一つでもあると思いますが、実際には、ここでのビスマルクとの対談が感情的にその後の日本の国策方針に大きく影響したと思います。 彼は、おそらく利害とは関係なしに、この東洋のちっぽけな国から来た未開の外交官たちに助言したため、遣欧使節団もその騎士道精神に心を揺さぶられたのです。 ビスマルクは、目的のために手段を選ばない男です。 身内の不幸も喜んで政治の道具に使うことができる、徹底したリアリストです。 一方で、無駄な戦争はしませんし、無駄な敵は作りません。 この場において、日本は彼の敵ではありませんでしたし、ビスマルクは、ひょっとしたら将来日本が力を蓄え、この日のことを覚えていてくれて、良きドイツの盟友になってくれることを、多少なりとも考えたのでしょうか。 この後、岩倉使節団は帰国し、日本はドイツ式の軍制をしき、近代化の階段を上り始めます。 ビスマルクのいうように国力をつけ、中国やロシアを戦争で破り、今度は、韓国併合、満州国建設、と東アジアの覇権をかけて帝国街道をまい進し始めます。 やがて、アジアとヨーロッパで完全に孤立した日本とドイツが、初めて戦争で手を結ぶのは、この岩倉使節団の訪問から60年以上たった1936年、日独防共協定が締結される日を待ちます(ちなみに、岩倉使節団の 田中光顕はこの時存命です)。 この、近代化以降、ビスマルクの避け続けていた帝国主義をとり、第二次世界大戦に向け、お互いを道ずれに破滅の道を歩もうとしている当時の日独両国を見たとしたら、ビスマルクは果たしてなんと言ったでしょうか。

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岩倉遣欧使節団|西郷どん(せごどん)失敗に終わったヨーロッパ視察は帰国後に政府内の混乱を巻き起こす

岩倉 具視 使節 団

岩倉使節団とは、明治初期の1871年12月に日本を出発し、アメリカやヨーロッパ諸国、アジアに派遣された総勢107人の大規模な使節団のことです。 岩倉具視(いわくらともみ)が正使となり、大使や副使には政府の実力者を据え、そのほかにも国際的な知識をもつ旧幕臣や有能な人物が起用されました。 当時は、旧幕府が欧米各国と結んだ不平等条約の改定時期が1872年と迫っていた時期です。 しかし立ち上がったばかりの明治政府は、いまだ諸外国と対等に改正交渉ができるような状態ではありません。 そこで海外へ視察に行き、政治、経済、軍事、産業などあらゆる分野での近代化を進める必要がありました。 彼らの旅は当初10ヶ月程度の予定でしたが、12ヶ国を歴訪し、結果的にはおよそ1年10ヶ月という長いものになったのです。 特命全権大使が当時外務卿(現在の外務省長官)だった岩倉具視、副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の4人、このほか各省の調査理事官など正式メンバーは46人です。 そのほかに留学生として、公家や大名の息子たちや書生などが50人ほどと随従者の、総勢107人でした。 留学生のなかには女性も5人いて、最年少は8歳の津田梅子です。 欧米先進国の制度や文物調査をし、日本の近代国家づくりのために働く人材養成も兼ねていたので、このような大人数になりました。 政府の要人以外にも、帰国後に活躍した人が多数います。 中江兆民(なかえちょうみん) パリへ留学し、ルソーの『社会契約論』を翻訳、「東洋のルソー」と評されました。 自由民権運動の理論的指導者でもあります。 金子堅太郎(かねこけんたろう) アメリカに留学し、ハーバード大学で法学を学びます。 帰国後には大臣を歴任し、大日本帝国憲法の起草に参画しました。 日本法律学校の初代校長でもあります。 団琢磨(だんたくま) アメリカに留学し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学びます。 三井三池炭鉱の経営をおこない、三井財閥の総帥になりました。 津田梅子(つだうめこ) 最年少の8歳で渡米しました。 1度帰国し華族女学校で教鞭をとりますが、再び渡米。 帰国後女子英学塾(津田塾大学)を創設します。 山川捨松(やまかわすてまつ) 派遣された当時は12歳でした。 米国のヴァッサー大学卒業時には、卒業生総代のひとりに選ばれ「日本に対する英国の外交政策」を演説します。 帰国後は赤十字社篤志看護婦会など、社会福祉活動に尽力しました。 1年10ヶ月にわたる旅の行程は、以下のとおりです。 1871年11月12日横浜発• 12月6日~アメリカ滞在(サンフランシスコ、ワシントン、ボストンなど)• 7月13日~イギリス滞在(リバプール、ロンドン、マンチェスターなど)• 11月16日~フランス滞在(パリ)• 1873年2月17日~ベルギー滞在(ブリュッセル)• 2月24日~オランダ滞在(ハーグ、ロッテルダム、アムステルダムなど)• 3月9日~ドイツ滞在(ベルリンなど)• 3月30日~ロシア滞在(サンクトペテルブルク)• 4月18日~デンマーク滞在(コペンハーゲン、ハンブルク)• 4月24日~スウェーデン滞在(ストックホルム、コペンハーゲンなど)• 5月9日~イタリア滞在(フィレンツェ、ローマ、ヴェニスなど)• 6月3日~オーストリア滞在(ウィーン)• 6月19日~スイス滞在(チューリッヒ、ジュネーブ)• 7月15日~フランス滞在(リヨン、マルセーユ)• 7月20日~帰国の旅(地中海、スエズ運河、マラッカ海峡、香港、上海など)• 9月6日長崎着• 9月13日横浜着 岩倉使節団とビスマルク、帰国後の日本への影響は。 1873年3月、ドイツを訪問していた彼らは、当時首相を務めていたビスマルクから夕食に招かれました。 ドイツは、1867年の「普墺戦争」、1871年の「普仏戦争」を経て統一されたばかりの国家です。 プロイセン王国の首相兼外相だったビスマルクは、「鉄血宰相」とよばれる厳しい軍事政策をとりながらドイツ帝国の樹立を果たしていました。 そんなビスマルクから、日本の使節団は次のような言葉をかけられます。 「不平等条約の改正を議論しているようだが、弱い国がいくら国際法を導入しても意味がない。 大国は利益があれば法を守るが、なければ簡単に破って武力を使うだろう。 まず日本は強くなるべきだ。 」 「プロイセンは弱小国家だったが、数十年かけてようやく列強と対等に会話をできるようになった」 「日本も法を気にするより、まずは富国強兵が大事だ」 ……これまで不平等条約を是正することを目的のひとつに旅をしていた使節団の面々は、ビスマルクの話の内容に大変驚きました。 とりわけ大久保利通が感銘をうけ、西郷隆盛にあてた手紙ではビスマルクのことを「大先生」と表しているそうです。 この時のビスマルクの言葉は、後の日本にも大きな影響を与えました。 使節団が帰国した後に、日本はドイツ式の軍備を敷き、国力をつけて「日清戦争」「日露戦争」へと進んでいくのです。 やがてアジアで独立した日本と、ヨーロッパで独立したドイツが手を組むのは、第二次世界大戦の前の1936年のことでした。 ここで詠まれているように、大きな財政負担をしながらも出発した岩倉使節団でしたが、不平等条約の改正は進展することができなかったのです。 しかしながら、西洋の文物に直に触れ、日本の現状を知り、近代化を進めるため多くの人材を育てることができたのは大きな成果だったといえるでしょう。 帰国直後に起こった西郷隆盛らの「征韓論」を抑え、富国強兵、殖産興業政策に努めるようになったのも、世界を見てきたからこそ導き出せた政策でした。 また憲法の制定、国会の開設、貴族院と衆議院ができたのも、使節団の成果だといえるでしょう。 岩倉使節団とキリスト教 欧米の情勢を視察したメンバーが驚いたもののひとつに、世界でのキリスト教の影響力の大きさがあげられます。 当時の日本は、江戸時代初期から続いていた「キリスト教禁教令」が出されたままの状態でした。 1858年に「日米修好通商条約」や「日仏修好通商条約」などが締結され、鎖国体制が解除されると、多くの宣教師が来日。 カトリック教会も日本に強い関心を示していました。 しかし1867年に設立した明治政府は、翌年「五榜の掲示」を出し、キリスト教を禁教とすることを継続したのです。 信者の多くは拷問を受けたり流刑になったりと弾圧されました。 このことが、諸外国から大きな抗議と反発を引き起こします。 使節団のメンバーは、欧米文化の発展の原動力にキリスト教の存在があったことを理解していたので、積極的に導入するよう意見します。 不平等条約を改正するためにも必須条件だとして、1873年にキリスト教禁止令が解かれました。 留守政府とは。 岩倉使節団がいない間にやったこと 使節団のメンバーには、明治政府の主要人物が数多く含まれていました。 彼らが欧米を歴訪している間の日本政府を守るために組織されたのが「留守政府」です。 中心となったのは、三条実美(さんじょうさねとみ)、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助など。 使節団とは出発前に盟約書を結んでいて、そこには「留守中に新しい改革はしてはいけない、何か大規模なことをする場合は使節団に報告しなくてはいけない」とありました。 しかし当初から10ヶ月を予定されていた歴訪です。 その間何もしないわけにもいかず、留守政府はしっかりと政策を進めていきます。 では彼らの功績をみていきましょう。 「県」の再編 まずおこなったのは、1871年に発令されたばかりの「廃藩置県」の後処理です。 これに関しては使節団のメンバーからも速やかにおこなうよう頼まれていました。 当時300を超える県がありましたが、これをどんどん統合し、72まで減らします。 県には県知事、府には府知事を派遣しました。 法制度の制定 近代国家として日本を整えるために、法制度や裁判制度の整備が必須でした。 維新の十傑のひとりである江藤新平(えとうしんぺい)を司法卿に任命し、近代化政策を進めます。 欧米の「三権分立」を導入し、行政から独立した司法の基礎を作りました。 壬申戸籍の編製 江戸時代には「宗門人別改帳」というものがありましたが、これをさらに整理して、皇族から平民まで、「戸」を単位にして集計しました。 日本全国を同じ基準で調査したこと自体が画期的で、これによって総人口が3311万人とされています。 地券の発行 それまでは税が課せられていなかった都市の市街地に対して、地下100分の1の税金が課せられるようになり、地券が発行されました。 また、田畑の売買を禁止していた法令が廃止され、それに伴い土地の売買や譲渡をする際にも地券が交付されています。 堂々たる日本人とはどんな姿だったのか 明治新政府の黎明期、政府の中心人物たちの長期大外遊が果たして成功するのか否か……国家の命運をかけた大冒険が始まります。 元維新の志士の政府高官や、旧幕臣の語学堪能な外国通の書記官たち、世が世ならお殿様になる大名や公家の子弟たち、向学心に燃えた書生たちや、まだ年端もいかぬ女の子まで、さまざまな人を乗せた岩倉使節団の一行が、横浜から船出します。 日本に残る留守政府も「鬼の居ぬ間に洗濯」とばかり、約定違反の改革を進めていきました。 本書では岩倉使節団の海外視察の旅と、日本の国内事情が同時進行で描かれています。 視察内容はもとよりその前後の状況も書かれているので、広い視野で当時の状況を読むことができます。 帝国主義的だった西欧諸国が日本人を温かく歓迎し、惜しみなくその知識や技術を与えてくれたことが、どれほど当時の日本にとってありがたかったことでしょう。 彼らひとりひとりが西洋でそれぞれの分野の種を摘み取り、日本で大輪の花を咲かせました。 確かに岩倉使節団は莫大な費用を使いましたが、決して浪費ではなかったのではないかと思います。

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岩倉 具視 使節 団

概要 [ ] 背景 1870年7月に始まったとの間に(1870年戦争)は、ドイツ側の連合国が1871年1月に統一されとなり、4月にはが施行されたうえ、5月には終結していた。 ただ、1870年10月に日本政府が北ドイツ連邦の印刷会社に注文した偽造通貨対策のための紙幣(と呼ばれる)は、使節団が出発した1871年11月にはまだ届かなかった。 出発 明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に ()の蒸気船「 ()」号でを出発し、を一路 に向った。 その後アメリカ大陸を横断しを訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。 その後を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。 1872年 使節団はの蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのに到着した。 から始まり、、、を経てへ向かう。 スコットランドでは、、さらにはにまで足を延ばし、続いてに戻って、、、、、、、、などを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。 1872年12月5日はではにも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。 1873年3月15日にはドイツ宰相主催の官邸晩餐会に参加。 ヨーロッパでの訪問国は、(4か月)、(2か月)、、、(3週間、)、(2週間)、、、、(を視察)、の12か国に上る。 帰途は、からを通過し、を経て各地にある諸国の(、、、、等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。 当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「」号で横浜港に帰着した。 では朝鮮出兵を巡るが争われ、使節帰国後にとなった。 元々の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。 一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。 また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本のに大きく貢献した。 しかし一方では権限を越えて交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。 使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉はと和服という姿で渡航した。 この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。 日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子のらに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、で断 髪。 以後は洋装に改めた。 目的 [ ]• 条約を結んでいる各国を訪問し、に国書を提出する• 後期に諸外国と結ばれたの改正()のための予備交渉• 西洋文明の調査 使節団の主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた。 明治政府は旧幕府と締約された各種条約を新政府のものとに置き換えるべく明治初年度から順次交渉を続けていたが、(明治5年)をもって欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである。 だが、日本は法制度が整っていないことなどを理由に不成功に終わった。 派遣使節団 [ ] 使節46名、随員18名、留学生43名。 使節は中心、書記官などは旧幕臣から選ばれた。 使節 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2017年11月)• 編著『』 (明治11年刊、5冊組で全100巻、博聞社、1878年)• 『米欧回覧実記』 校注、(全5巻)、初版1977-82年/、1985年(単行判5巻組)• 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』 訳注、、2005年(単行判5巻組)• 企画:米欧亜回覧の会 〔専門的な編著・単著〕• 久米美術館編 『岩倉使節団関係 久米邦武文書 3』 、2001年• 久米美術館編 『特命全権大使 「米欧回覧実記」銅板画集』 1985年• 久米美術館編 『銅鐫にみる文明のフォルム 「米欧回覧実記」挿絵銅版画とその時代展」資料集』 2006年• 田中彰 『岩倉使節団の歴史的研究』 、2002年• 編 『欧米から見た岩倉使節団』 ほか訳、 [MINERVA日本史ライブラリー] 、2002年• 編 『岩倉使節団の比較文化史的研究』 思文閣出版、2003年• 米欧回覧の会編 『岩倉使節団の再発見』 思文閣出版、2003年• 米欧亜回覧の会編 『世界の中の日本の役割を考える 岩倉使節団を出発点として』 芳賀徹・・ほか多数、、2009年• 田中彰・高田誠二編著 『「米欧回覧実記」の学際的研究』 図書刊行会、1993年• ・松宮秀治編 『「米欧回覧実記」を読む 1870年代の世界と日本』 法律文化社、1995年• 岩倉翔子編著 『岩倉使節団とイタリア』 、1997年• 米欧亜回覧の会・泉三郎編 『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』ミネルヴァ書房、2019年 〔一般向けの書籍〕• 『岩倉使節団 「米欧回覧実記」』((改訂版)、2002年)。 初刊は 1977年• 『と西洋文明 岩倉使節団は何を見たか』(、2003年)• 『「脱亜」の明治維新 岩倉使節団を追う旅から』([]、1984年)。 版2003年• 編訳 『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』(、2018年)• 『アメリカの岩倉使節団』([ちくまライブラリー]、1992年)• 『白い崖の国をたずねて 岩倉使節団の旅 のみたイギリス』(、1997年)• 『新・米欧回覧 歴史紀行 岩倉使節団の旅を追う』(毎日新聞社、1993年)• 『誇り高き日本人 国の命運を背負った岩倉使節団の物語』 (、2008年) 改題『岩倉使節団 誇り高き男たちの物語』(祥伝社黄金文庫、2012年)• 『堂々たる日本人 知られざる岩倉使節団』(、1996年/、2004年)• 『岩倉使節団という冒険』(、2004年)• 『写真・絵図で甦る堂々たる日本人 この国のかたちを創った岩倉使節団「米欧回覧」の旅』(祥伝社、)• 『維新の科学精神 「米欧回覧実記」の見た産業技術』(、1995年)• 高田誠二 『久米邦武 史学の眼鏡で浮世の景を』(〈〉、2007年)• 芳賀徹 ほか 『岩倉使節団の西洋見聞 ~「米欧回覧実記」を読む~』(「NHK市民大学」、1990年) 脚注 [ ]• アメリカでは大統領、イギリスではヴィクトリア女王、フランスでは大統領、ベルギーでは国王、オランダでは国王、ドイツでは皇帝と謁見した。 宮永孝「アメリカにおける岩倉使節団 : 岩倉大使の条約改正交渉」『社會勞働研究』第38巻第2号、法政大学、1992年1月、 43-93頁、。 各学生の概歴は以下の通り: 上田てい:上田悌子(うえだ ていこ)、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。 吉益りょう:(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘、1885年以前に死去。 永井しげ:(ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘(旧幕臣・永井久太郎の養女)。 津田うめ:(つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・の娘。 (やまかわ すてまつ)、満11歳、会津藩の国家老・山川尚江重固の娘。 関連項目 [ ]• - 1582年に九州のキリシタン大名の名代としてローマへ派遣された使節団。 キリスト教の布教支援などが目的とされる。 - 1613年にヨーロッパへ派遣されたの使節団。 通商交渉が目的とされる。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキソースには、の原文があります。

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